Member Login

Member Login

Username
Password *

文・チャールズ・ポメロイ

40th_Anniversary_Party_1985-11-29-B19-001.jpg

1985年11月29日 40周年記念パーティー(東急ホテルにて)

皇太子 明仁殿下 / 皇太子妃 美智子殿下

 

 逆境こそが記者クラブ結成のきっかけとなるものです

 1945 9月、ダグラス・マッカーサー元帥が占領をはじめた直後の日本では、不満を抱いた従軍記者たちが共通目的の下に一致団結しました。降伏して間もない混沌とした数週間、宿泊施設の不備を理由に、記者の日本入国が制限されたことに異を唱えたのです。人数は多くありませんでしたが、この記者の一団は、直ちに「東京特派員クラブ」を結成しました。日本外国特派員協会 (FCCJ)の前身です。

 新しく発足した記者クラブは、日本にやってくる特派員たちの宿泊場所の確保を第一の目標に据えました。その代表はハワード・ハンドルマン( INS)、第1・第2副会長にドン・スター(シカゴ・トリビューン紙)とウィリアム・ダン(CBS)といった面々でした。

 マッカーサーの総司令部が置かれた第一生命ビルと東京駅の中間に彼らが見つけたのが、5階建ての丸之内会館でした。空襲の被害は受けていましたが、使用には耐える状態でした。 170名ほどいた記者たちの交流と宿泊の場とすべく、この建物を借り受け、改修をほどこしましたが、工事完了前の 45 11月には、すでに営業を開始しています。呼称は「 No.1 Shimbun Alley」となりました。

Douglas MacArthur at Tokyo Correspondents Club- Tom Lambert 1947-03-17-007

1947年3月17日 ダグラス・マッカーサー将軍 (前身である東京特派員クラブにて) 当時のトム・ランバート会長と共に

 

 東京駅と皇居の間、丸の内にあった「Alley」は三菱地所所有で、占領終結ののちには立ち並ぶ巨大ビルの一部となってしまいました。しかし、丸の内のメインストリートで、大手町と日比谷の間の 10区画を結ぶ仲通りは、何度かの移転を経た今も FCCJの会員たちの憩いの場です。地の利がよく、なにかと便利な仲通りは、東京のパークアベニュー縮小版とでも言うべき通りで、銀座もまた徒歩圏内です。

 

  1950年朝鮮戦争勃発。再び特派員ラッシュへ」

 

 古くからいた従軍特派員たちは、占領下の日本の変遷の状況を世界に発信し続けていましたが、徐々にその数は減り、 1947年の半ばには会員は 40人となってしまいました。クラブは経済的に逼迫し、 40年代末までには、収益を上げるためにダンス・パーティーや特別ディナーなど娯楽的なイベントを毎週、催すようになりました。

 そこへ起こったのが、 1950年6月の朝鮮戦争です。この戦乱を取材するために特派員たちは再び日本へどっと押し寄せ、会員数は 350人にまで跳ね上がりました。朝鮮戦争では 18人の特派員が命を落とし、クラブ入口の銘板にその名が刻まれました。

 1952年、日本への主権返還により、クラブは日本の法の下に置かれることになりました。「日本外国特派員協会( FCCJ・以下、協会)」と改称し、外務省が資金提供する非営利の社団法人となったのです。しかし、 1953年、朝鮮戦争休戦協定後、急速に特派員が日本から離れていくと、再び会員減少が問題となり、翌 54年には、仲通り沿いの、それほど遠くない角地にあった、旧アメリカンクラブの建物へ移転することになります。この移転により協会の性格は変化することになります。宿泊所も兼ね備えた、強い仲間意識に支えられた雰囲気はあえかな思い出となり、準会員が増加していったのです。

Yukio Mishima- John Roderick 1966-04-18-005Kenzaburo_Oe_1984-08-03-B20.jpg

写真左 1966年4月18日 三島 由紀夫 小説家、劇作家として 当時のジョン・ロデリック会長と共に

写真右 1984年8月3日 大江 健三郎 小説家として

 

 協会を設立当初から運営してきたのは、まず正会員、つまり取材で日本に来た特派員たちが選出した協会の理事、役員です。さらに、準会員からのボランティアが協会を存続させるためのさまざまな委員会活動にたずさわりました。準会員の制度は、そもそもは会員家族のためのもので、 1946年に定められた当初の会則では別枠でした。協会の円滑な運営に貢献した会計士ビル・ソルターのような、家族外準会員は 1947年から取り入れられた制度です。長きにわたりソルターのような大勢の準会員が、進んで、持てるノウハウを提供してくれています。正会員に対する準会員の割合は、 60年代半ばに1対4と決められました。

 1958年、 FCCJは、仲通りを日比谷方向に下り、その後 18年をすごす拠点へと移転しました。千代田ビル新館です。この新しい拠点は立地も間取りも、会員には大いに魅力的に映りました。 FCCJが占めるのは低層フロア。レセプションは1階に、2階にはメイン・バーとダイニングルーム、さらに、 1947年の設立当初よりずっと広くなったライブラリー、 24時間利用できるワークルーム(編集作業室)がありました。地下の男性専用バーの売りはマリリン・モンローの巨大なヌードカレンダーで、入口に飾られた同じく巨大な写真、「男性専用」の標識を抱えたヌード姿の日本女性と妍を競いました。このような男性崇拝主義的な雰囲気はやがて消え失せ、 73年には「男性専用」は、懐かしくもあり、また新しい響きを持つ「 ShimbunAlley」の表示と差し替えられたのです。

 58年の移転後、協会が段々と会員にとって社交生活の中心になってゆき、娯楽と社交のイベントが増えていきました。設立の年からもっとも人気があったのは周年パーティで、自虐ネタと権威を貶しめるのが大好きな会員による寸劇が主な出し物でした。時が移ろうにつれて、寸劇も、また年始式や大晦日パーティもすたれていきましたが、そのかわりに 60年代からはさまざまな趣向に富んだ集まりが開催されました。大使館賛助により各国のお国柄を紹介する夜のパーティ(各国大使は FCCJの名誉会員です)、日本のさまざまな面を詳しく研究する文化的なイベント、各県主催の催し、ワインや酒のテイスティング、音楽演奏や映画上映など、今でも続いているものばかりです。初期の映画鑑賞のゆうべも、今では監督自身がしばしば登壇する特別な上映会へと変貌しました。 

 

 FCCJ対記者クラブ制度」

 

 1959年、明仁親王と正田美智子さんのご成婚取材で外国メディアは障害に直面しました。焦点となったのは、日本の記者会見参加資格の問題です。取材と報道の自由を確保するため、 FCCJ後援による日本フォーリンプレス( FPIJ)の結成を急ぎました。当時も現在も問題の根底には日本の「記者クラブ」のシステムがあります。政府の各省庁はもとより、その出先機関、商工会議所などあらゆる組織に結びついた何百という小さな「記者クラブ」が存在しており、大半の記者会見への出席はそのメンバーだけに制限されているのです。 FPIJが強力な仲介となったおかげで、 64年の東京オリンピック取材は大変、円滑に進み、この組織が役だったことが証明されました。

 記者会見は、協会を記者クラブたらしめるに欠かせないものです。まずはマッカーサー元帥らお歴々が臨席した占領期の軍事会見や折々の昼食会に始まり、 50年代以降は、少しずつより多様な 記者会見へと移り変わっていきました。協会の記録によれば 56年には (記者会見はただの2回。これが 10年以内に 30回へと跳ね上がり、 1991年にはついに 100回を越すという大躍進ぶり。記者会見のゲスト・スピーカーとして、幾人もの首相、大統領、諸外国公使、大使、宗教指導者、映画スター、東西両陣営の宇宙飛行士、作家、学者、経済人、大物実業家、また心臓移植手術の外科医にまで及ぶ、ありとあらゆる分野の専門家たちが名を連ねてきたのです。

 月刊機関紙「 No.1Shimbun」は、 1968年、協会の活動ならびに取材と懇親の行事に関して会員に通知すべく創刊されました。1年後には、協会に来臨した初めての王族である、英国のマーガレット王女・スノードン卿ご夫妻歓迎会の記事が一面を飾っています。以来、年2回のゴルフトーナメントや、かつてあったソフトボールチーム「アレイ・キャッツ」の活動を含め、数えきれないイベントが報じられてきました。しかし疑いなく、もっとも忘れがたい報道のひとつは、 74年、田中角栄総理大臣を迎えた報道昼食会でしょう。のちのロッキード事件にまで及ぶさまざまなスキャンダルとからみ、総理の失脚を加速させたのが、この記者会見であったと多くの人たちが認めています。このため、協会内には侃々諤々、議論が巻き起こり、また後援機関である日本外務省からの批判を浴びることにもなりました。

Naomi_Uemura_1978-01-18-N-025.jpgAH3Z0168.jpg

写真左 1978年 1月18日 植村 直己 北極圏探検家、冒険家として

写真右 2014年4月24日 羽生 結弦 ソチオリンピックフィギュアスケート男子シングル金メダリスト、

2014年世界フィギュアスケート選手権チャンピオンとして

 1976年、またもや移転です。今回は眺めのよい建物へ移動します。銀座地区の入口で、丸の内と日比谷地区をへだてる、晴海通りと仲通りの角にある有楽町電気ビルヂングの 20階が新たな拠点となりました。遠い富士山と東京湾がよく見える眺めが会員の目を楽しませましたが、今では周囲に林立してきた高層ビルに、ところどころさえぎられてしまっています。ダイニングルームの窓から大手町方向へ仲通りを見下ろせば、日本最大のビジネス街である丸の内と、また皇居の一部が望めます。反対側にあるメインバーからは銀座方面を見渡せるのです。

 振り返れば、時勢の変化で、いやおうなく引っ越さざるを得なかったのですが、そのたびに、協会のありかたは影響を受けてきました。 1954年の移転は、従軍記者の時代を終わらせました。それでも会員記者たちはアジアの紛争を報じ続けていましたが、 58年の移転後、日本の一貫した経済成長と貿易摩擦を取材する経済記者の到来で、協会ならではの、仲間意識は薄れていきました。転機となったのは、 64年、一般記者の困惑をよそに、経済記者が FCCJ会長に選ばれたときです。経済、商業、科学、文化など各分野への専門化が、 76年有楽町電気ビルへの移転後にも続き、協会の多数派が古き一般記者から専門記者へと移るにつれ、強い結びつきも薄れていったのです。

 1985年には、皇太子昭仁殿下と美智子妃をお迎えして友愛の精神あふれる 40周年記念ガラ・パーティが開催されました。 90年、マリリン・モンローの巨大なポスターが迎える小さなバー「 ShimbunAlley」にかわって寿司店が導入された際には、再び嘆きの声が聞かれました。バーを聖地とみなしていた古参記者たちを四散させてしまったためです。ですが、気づかぬうちに、ずっと大きな変化をもたらしていたのは、デジタル時代とインターネットの急激な成長でした。協会設備の利用も、ジャーナリスト同士の仲間意識を高めることも必要でなくなってきていたのです。

 

1995年、阪神大震災とオウム真理教事件の勃発」


 1995 1月、神戸がほぼ壊滅した阪神大震災、 3月、東京でオウム真理教の地下鉄サリン事件と、大災害のニュースが世界の耳目を集めました。しかし、 90年代初期の日本のバブル経済の破綻とそれに続く「失われた 20年」により、新世紀には報道の目は日本から中国と韓国に移ってしまっていました。こうした状況の中、 2010年の日本航空の経営破綻、翌年 10月のオリンパス事件を含むありとあらゆるニュースをかすませてしまったのは、 2011年3月 11日の大地震、津波、福島原発炉心融解の3つからんだ大事件でした。その取材のために世界中からジャーナリストが詰めかけたのです。

 2011年は、協会にとっても忘れがたい年でした。 NPO法人制度の法改正が行われ、 2014年には FCCJの社団法人という地位が抹消されることになったのです。大いに意見が交わされ、会員は「公益法人」の道を選びました。収益の半分以上を公的奉仕・活動に費やさなければならないのです。その規定水準を達成するため、協会は料飲部門をアウトソーシング化、慣れ親しんだ大勢のスタッフを泣く泣く解雇しました。 2012年には一般投票で協会の新しい定款を公益社団法人とすることを 3分の2の得票により決定、翌 13年に関係内規の改訂が通りました。こうして 2014 4 1日の名称変更につながっていくのです。

 いろいろな変遷を遂げてきましたが、 FCCJが、報道機関らしさと友愛精神を生き生きと根付けせ、その歴史や、規模や、活動のいずれもとっても世界最大級の記者クラブであることは変わりません。会員数は約 2000。そのうち、 300人を超す正会員は、外国特派員と海外で確固たるキャリアを築いた日本メディアの記者たちです。また、 200人を超すプロフェッショナル準会員のほとんどは日本のマスコミで働いています。 1500人ほどいる準会員にはビジネスマン、弁護士、会計士などの専門家、また作家や芸術家が含まれます。名誉会員の資格は、各国大使、記者会見やその他のイベントで講師を務めた方々やスペシャルゲストに与えられ、会員名簿に掲載されることはありませんが、協会の草創期にまでさかのぼることのできる制度なのです。

1945年から95年、50年にわたるFCCJの発展については拙著「Foreign Correspondents' in Japan」に詳述しています。

 

Seiji_Ozawa_1978-03-17-N-021.jpg

Sadaharu_Oh_1977-10-17-N-037.jpg

Shintaro_Ishihara_1977-05-23-N-018_2570p.jpg

写真上 1978年3月17日 小澤 征爾 指揮者、ボストン交響楽団 音楽監督として

写真中 1977年10月17日 王 貞治 日本が誇るホームラン王として 当時のフレデリック・マークス会長と共に

写真下 1977年5月23日 石原 慎太郎 環境庁長官として 当時のビル・シン会長と共に

 

Go to top